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苦しみと楽しみの共存

ゾノ

更新日: 2003/12/01

以前、川久保氏が「服作りをする時は、デザインを生み出す時は、死ぬ気でやっている」と雑誌のインタビューで答えていた。サンローランも、血を吐く想いでデザイン活動を行っていたらしい。そのことを聞いた時は、まだ服作りをはじめたばかりであまりよくわからなかったが、最近痛いほど良くわかる。以前は、こんな服いいな、こんな服はどうかなと、どんどんデザインが浮かんでいたが、今は浮かんでも、頭の中でシュミレーションでパターンを引き、作ってみて、やっぱりだめだと諦めるようになる。以前のように自分の中に自由がなく、デザインを考えるだけで、苦しくなることもある。しかし、一度出たらとまることなく没頭し、ほかの事など関係なしに、集中できる。デザインを生み出すことは、本当に命がけです。

ポチョムキン

更新日: 2004/02/12 01:13

タバコさん、捨て犬を内緒で飼う さん、おはようございます。
タバコさんの、もどかしい思い、切々と伝わってきました。正直に生きていらっしゃるのですね。わたしは、タバコさんの生き方にも、敬意を表したいと思います。
わたしの生き方も、人からは否定されがちです。けれども、ちゃんと伝わる人には伝わるものなのですね。そうなのですよね。だから、タバコさんも、これからもご自分を貫き続けてください。
捨て犬を内緒で飼う さん。再びお話できて嬉しいです。
あなたの、創造の追究に於けるひたむきな姿勢とピュア―な力ある言葉には、勇気の根源を感じます。
以前仰っていたとおり、可能性というのは未知数ですよね。
仮に、たとえ今、0、もしくは0以下のところにいる、そんな場合でも、絶対に自分を諦めない人。
0以下である自分を知るところからスタートして、それをきっかり受け止めた上で、「自己」のエンジンをかけるべく、自分のやりかたで展開してゆける人。
お二方とも、とても大きな可能性を持っていらっしゃると思います。いや、わたしなどからお二人に「可能性」などと申し上げるのも、はかばかしいとは存じますが、正しい意味での「可能性」の所持量は、どんなに「展開」し、「成長」した、熟練の方でもまた、全くの未経験の人でも、同じであると思うのです。
あとは心がけひとつ、ですよね。
ご意見誠に有難うございます。

ポチョムキン  拝。

捨て犬を内緒で飼う

更新日: 2004/02/11 21:46

仰るとおりです。ビジネスだ、と割り切れたらどんなに楽なことでしょうか。でも、どうしても楽な方がいい、楽になりたい、とは思わない・・・・・。そんな人間が創造という作業に対峙すべきでしょうね。

タバコ

更新日: 2004/02/11 17:24

つたない、よりひどい、文章でもうしわけありません。他の方に誤解を生じるので。

あの、自分探しについては、私も賛成できないのです。
なぜなら、あの時代、その伏線にコーポレットアイデンテイテーてのが先にあって、真のルネッサンスではなく、薄っぺらのご都合主義に思えたからです。

真の個人回帰ならよいのです。

つまり白紙と言う意味についても、私はあまねく全てにおいて、明かな真理 書かずとも、おのずと知れる真理という意味で、なにもないわけではない。と考えます。私たちでは説明の至要のないものです。

なにも学ばず、くらいからといって。もの造りができる、できないということはない。

造り続けるために、見つけつづけるためには。
それなりの努力とアドバイスが必要だと考えたのです。一生に一つでよいのなら、、、、さびしいですね。

このことで、ポチョムキンさんに反論があるわけでなく。むしろ、ポチョムキンさんのほうが正しいやり方だと思いました。

それと映像の話で、写真にとれば。現物とはなれて。べつのものになります。やりかたは、ある種のコピー。見えないものをコピーするわけです。
見えてないものを移しとる。形にする。洋服も同じと思えたので、多分なにもないではなく。見えないものをみる。夢の世界のはかない仕事です。ビジネスだなんて言う人がうらやましい。

ポチョムキン

更新日: 2004/02/11 15:54

タバコさん、はじめまして。
仰ること、わかります。取り込んだ情報にかえって押しつぶされてしまうようでは、悲劇です。
ですから勿論、自分の取り入れたもの、身に付けようとするものに対しては、それ相応に対峙できるような己でありたい、また、そうなることを目指して、
初めは少々、がむしゃらに見えるかも知れません。
けれど、そのうち「己」は、いつのまにか、そのがむしゃらを、咀嚼できるように育ちうる可能性にたどり着けるとわたしは信じたいと思っています。
さなぎが蝶になるように、鮮やかに変貌する「自己」もあれば、じっくり、ゆっくり、3歩進んで2歩下がる、そういう「自己」もあるでしょう。
自分がどんな展開を見せうる「己」の持ち主であるか、は、そのひとによります。そして、どんな「自己」が優性であるかという基準はありません。
人生はあくまでその人のもの。その人なりの展開で、いいんじゃないかと思います。
わたしの説も、かなり偏ったものです。
それは、あの頃周りのみんながみんな、「自分探し」とさえ唱えていれば、なんとなく評価される、という姿勢でものを創っていこうとして、なあなあなレールを揃って敷き始めたこと、そしてそれを押し付けられそうになったことが、個人的にすごく不快だった、というのが主な理由です。
「自分探し」で展開してゆく他人を、否定はしません。
ただわたしは、そういうタチではないんでしょう。
タバコさんの仰る、「ギフト」。
それに気づけるかどうか、もやはり、人によって方法が異なるのだと思います。
「ギフト」。見失わないように、けれども棚ぼたを待つだけでなく、展開してゆきたいと、わたしはおもっています。
末筆ながら、率直なご意見、有難うございます。
またお話できれば、嬉しく思います。

ポチョムキン  拝

タバコ

更新日: 2004/02/11 14:38

ポチョムキンさん
とても良く判ります。本当に幼い個性ですよね。
ただこわいのは、各自が努力して必死になって、手に入れたものより。
ぽっと出てきた物が、ものすごく良いもの(ギフト)であったりすることです。
アイデアをねったり、いろいろな技術をもりつけたとしても、結果はでない。
それを誤解して、個人のオリジナルを重要視するのは、本末転倒です。
良いものは白紙のお経、二番目が、ありがたいお経。孫悟空のお話ですが。
白紙と言う意味を取り違えています。
むしろ、ギフトをみのがさないよう、各自努力していきたいものだと思います。

命をかけても、かけなくても、そんな些細な問題で、答えが出るとは思えません。
物をつくるというのは、多分作り手の事情とは、いっさい関係のないところに、
答えがあるように思えてならないのです。

服にかぎれば、なにかのよいもののコピーをつくること、だと思います。
良いとこをみのがさず。なにかのの法則にしたがって。
コピーしていく作業、型紙をつくって、同じ形にはさみをいれて。。。

着る服であるものの、それ以上それ以下でもない。もの。

ほんものそのままではなく、身に纏う布で、コピーしたものなんだと感じています。
デザインてデシネですよね。なぜアールでないか。区別があるか?
モンドリアンにあこがれる。デザインの極致 洋服とは同じ作業。

だいぶきつい書き込みになってしまいましたが。
ご容赦。願います。

ポチョムキン

更新日: 2004/02/06 13:04

みなさん、こんにちは。お邪魔致します。
わたしは服作りは素人ですが、物づくりをしています。
その一つが、学校の専攻で学んだ「映像」です。
とくに、「写真」。これなんかわたし、カメラというものをいじったこともない状態で、いきなり「課題・一眼レフ35ミリフィルムカメラで人物を撮ってくること」
呆然としました。
いちがんれふ……って、何ですか???
そのときわたしが必死になって、やっと思い出したのが、
♪しんじゅくにしぐち えきのまえ〜、かめらはよどばし
か・め・ら♪
この一節です。
でてきたばっかりの東京。自動改札がどういう仕組みなのかさえ判らず、ましてや「新宿」があの「♪しんじゅく」
なのかも定かではなく。そんなわたしの大冒険、今にして思えばよくやった!と自分を慰めてあげたいほどですが、
よどばしかめら、見つけたんです。
で、「一眼レフ35ミリフィルムカメラ」ってどこにありますか、って聞きました。店員さんに。
行きました、売り場に。
!!高い……
言葉を失ったわたしを見かねてか、店員さん、中古品の売り場を教えて下さいました。
そこへ行ってわたし、持ってきた全予算3万円、出しまして、言いました。
「これで買える、一眼レフ35ミリフィルムのカメラ下さい。」
そして取り出されたのは、ボディー&ズームレンズ(35―70)、前ブタのみの、α―7000でした。いや、選択の余地なしです。というよりもその日それがあったというだけでもう、かなり奇跡に近かったんでしょう。
そんな思いをして(3万円は、本当はその月の生活費だったのです。)初めて撮った「人物」写真は、公園にいた人々のスナップで、とても見られたもんじゃあありませんでしたよ。
なにしろ、カメラには取説さえついていなかったんです。
しかも。わたし、フル・オートのそのカメラなのに、フィルム装填さえ、カメラを買ったとき、店員さんにやっていただいたんです。
フィルムとテープ(磁気録画テープ)の違いもわかっておらず、さらに言うとVHSにもB面があるものと思っていた、とんでも原始人のわたしでした。
そんななかでも、一枚だけ、「あ、これはうまく撮れている」と思えるものがなんとかあって、それを伸ばして合評会に提出しました。その写真の被写体となってくれた人物は、乳母車にのせられて木陰でお昼寝をしていた赤ちゃんでした。すぐそばに、お母さんとおぼしきひとがいらしたのですが、その方にお願いをしたら、すっかり表情が硬くなってしまわれて。今思えば、それもまた、初々しい雰囲気の風景ではあったのですが、そのときは「自然体」の人物を撮る=スナップ……つまりは、エリオット・アーウィットだとか、アンリ・カルチェ・ブレッソンだとか、そういう写真を想定していたため、お願いして、木陰に赤ちゃんの乗った乳母車だけが佇んでいる写真を、一枚だけ最後に撮らせていただいたんです。それを作品としました。
タイトル、「車輪の上」。
…………その写真、本人としては、暗室に入ってネガ現像、密着プリント、上げて初めて、「あ、写ってた。」
そんな写真ですよ。
いや、服に全く関係の無い話で、誠に申し訳ないです。
恐縮ながら、ここからが、本題です。
ほんっとーに何にも知らない、その道に於ける素人の発想って、時には玄人がはっとするような、自由なパワーにあふれていることって、ありますよね。解りやすい例では、
子供の絵だとか、言葉だとか。
でも、
「技術を身に付け、便利な道具や高価な材料を手に入れ、様々な情報、知識などが入ってくるにつれ、だんだんみんな、自由でなくなる。だから、あえて知らないまま、幼い眼差しのレベルのままで、物を作り続けたい。」
そういう姿勢の同期生が、物凄くたくさんいました。
確かに、個性的なひとたちではあったと思います。
少なくともその人たちが、自分の個性を尊重したい、という気持ちに見合うだけの個性ではあったと思うんです。
そしてその頃、教える側の人々の中にも、なんとなく彼らのそういう空気を汲んで、「オリジナリティーこそが命」と唱える流れがありました。
しかし、わたしは敢えて、そんな人々の聲に楯突いて、貪るように映像の知識に触れ始めました。皆、反対しました。「お前はお前のままで突き進めばいいんだ。古いしきたりに縛られる必要はない。」そう、多くの人に言われました。
いわゆる、『自分探し』ブームの時代の話です。
でも、わたしは、探さなければ見つからないほどちっぽけな自分なら、むしろ探すんではなく創るべきだろう、と思うんです。それは今も。つまり、知識や技術、情報など、身に付け、知ることによって壊れてしまうような脆い個性に甘んじていては、前進できないと。
苦しみも楽しみも、同一線上にあるものです。
苦しむことが同時に楽しめる。それは、まだまだ成長過程にある者ならではのステップだ、とわたしは思います。

長々と、失礼致しました。乱文にて。

ポチョムキン  拝。

捨て犬を内緒で飼う

更新日: 2004/01/09 11:51

いいえ、どういたしまして。でも、創造は、人間のできる最も素晴らしい仕事だと思います。だから、どうぞ其のまま突き進まれますよう。
携わるものが布であれ、音楽であれ、美術であれ「この人こそ凄い!」と思わされる方達は皆その心境を常に・・それこそ24時間・・保ってやっていらっしゃると思いますよ!

ゾノ

更新日: 2004/01/07 11:38

素敵なお言葉ありがとう。

捨て犬を内緒で飼う

更新日: 2003/12/30 21:19

その境地に達するかどうかが、恐らく自分の作ったものが「何ものか」になるかどうかの分かれ道なのだと思います。そこまで到達できたら、あとは加速度的に展望が開けてくるのでしょう。・・・以上、出勤前に一言。

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